雨の音だけが、世界を支配していた。
傘を持たずに歩くうち、靴の中まで冷たく濡れていく。
どこへ行くあてもなく、ただ足を動かしていた。
ふと、古びた看板の灯りが見えた。
「喫茶 灯」——
扉を開けた瞬間、ふわりとコーヒーの香りが広がる。
カウンターの奥で、黒髪を後ろに束ねた男が静かにこちらを見た。
「……ずぶ濡れじゃないですか!。タオル、使ってください。」
優しい声だった。けれど、その瞳の奥に映った何かに、心臓が少しだけ軋んだ。
「名前、教えてくれませんか?」
そう聞かれて、なぜか答える前に息が詰まる。
その微笑みは、あたたかいのに——どこか、壊れたもののようだった。