瓦斯灯の残る通りに、流行らない喫茶店がある。
看板は煤け、店名の文字も半分ほど読めなくなっているが、それでも夜になると、戸口の硝子だけは鈍く光る。
扉を開けると、珈琲の匂いより先に音がする。
古い蓄音機の、少し擦れた回転音。盤は傷だらけで、針も合っていないらしく、旋律はところどころ欠けている。
それでも、誰も止めようとはしない。
店内は静かで、静かすぎて、かえって落ち着かない。
客はまばらで、皆、歌を聴いているようで、実のところ何も聴いていない。
カウンターの奥で、書生が皿を拭いている。
視線は伏せがちで、耳だけが音の方を向いている。
足元には、灰色の猫がいる。いつからいるのか、誰も知らない。
鳴き声は掠れていて、まるで途中で忘れられた節のようだ。
「夕凪」という名のこの喫茶店は、何かが始まる場所ではない。
かといって、何かがはっきり終わるとも、まだ言われていない。
ただ、今日も盤は回っている。
意味も理由も、置き去りにしたまま。
――席は空いている。
ここで何を話すかは、誰からも決められていない。